「謝れなんて言ってない……そうじゃねえだろ」
怒鳴りつけこそしなかったが、フツフツと沸いてくる怒りに、それこそ声を荒げまいと必死だった。
そして視界に飛び込んでくる、今にも泣き出しそうに、不安に揺れる圭一の眼鏡の奥の大きな瞳。自分もまた、圭一の心を傷つける地雷を踏みつけてしまったのだと、それが理解できてしまったから、どうにも収まりがつかないもののぶつける場所を失った怒りが、心の中でとぐろを巻き始める。
「悪ぃ……頭冷やしてくる」
「晴彦…っ!」
ここで背中を向けてしまったら、圭一を傷つけてしまう。ただ黙って抱きしめてやればいい事だと、それを理解しながらも、そこまで冷静になりきれなかった。
それだけ、先ほど圭一が放った言葉は、晴彦にとって大きな意味を持つ言葉だったのだ。結局のところ、圭一が抱え続けてきた不安を、自分は拭い去ってやる事ができていなかったのだと、どこかでそれをわかっていながらも、どうしてもすぐに受け入れる事ができなかった。
だからこの怒りは、そんな不安を言葉に出して言った圭一に対するものではなくて、2人の関係は今や何の問題もなく、うまくいっているものだと信じ込んでいた、圭一の本音に気づいてやれていなかった能天気な自分への怒りで。
だからこそ、気持ちを落ち着ける必要があった。自分に対するものであるはずの怒りを、このままでは全て圭一に向けてしまいそうだったから。
それこそ、いい年をした大人の男が、自分の感情くらいうまくコントロールできないのかと、そう思いはするものの。他人の前では容易いその行為が、圭一の前ではうまくいかない。どんなに隠そうとしても、結局いつも見抜かれてしまう。
「煙草買いに行くついでに頭冷やしてくる……すぐ戻るから」
掴んでいた圭一の細い手首を解放し、それだけを早口に告げるとまるで逃げるようにしてリビングを後にする。
「だぁぁあああっ!畜生!バカか俺は……」
圭一が追いかけてこない事に安堵しながらも、それが少し寂しいなどと、またそんな自分勝手な事を考えてしまっている自分が腹立たしくて。部屋を出てすぐに乗り込んだエレベーターの中で、雄叫びを上げる姿は、一歩間違えれば変質者扱いで通報ものだ。
「ぬわぁ〜にが「おまえ、わかってる?」だってんだ!てめえこそわかってんのか!?俺っ!!」
いつだって傷つけたいわけじゃない。それなのに、昔も今も、結局圭一にあんな顔をさせてしまうのは自分なのだ。
「泣きそうだったな……」
そうポツリと呟いた自分の声が、狭いエレベーターボックスの中で虚しく響き、途端に脳裏に甦ってくる最後に見た圭一の表情が、また気分を落ち込ませる。
あんな表情をさせたままで背中を向けた自分は、とんでもない大バカ野郎だ。でも、やはりあのままあの場にいれば、もっと傷つける言葉を言ってしまっていたかもしれない。
だったら、少し頭を冷やして気持ちを落ち着けて、話の続きをするにしても、あの細い肩を抱きしめながら語り掛けれるくらい、それくらいまで気持ちを落ち着けなければと思ったのだ。
それも結局は、晴彦の独りよがりなエゴなのかもしれないが、自分がこれ以上圭一を追い詰めるだけの存在にだけはなりたくなかった。
「いい加減大人になれよな〜……寒ぃってんだ、畜生め!」
そんな自分への不満を漏らしながら、コートも羽織らずに出てきてしまった事が意味のない後悔に更なる拍車をかける。
まだ深夜とは言えない時間帯といえども、とっぷりと日の暮れた冬空の下、身を襲う冷たい夜風と共に胸に巣食うもやもや感を振り切るようにして、晴彦は僅かな街灯に照らされた闇の中へと一歩を踏み出した。
パタン──…と、静かに閉まる玄関の扉の音が耳に届き。途端にカクンと落ちた膝が、そのまま床へとへたり込む。
自分が不用意に発した言葉で、晴彦を怒らせてしまった事は明白だった。圭一だって、あんな事を言いたかったわけではないし、何よりも喧嘩したかったわけではない。久々に持てた2人きりの時間を、ただ寄り添って過ごしたいと、それだけだったのに。
「そんなに怒る事ないじゃんか」
晴彦が何に対して怒っているのかはわかっている。それでも、それは2人が付き合っていく上ではどうしたって付き纏ってくる事実で。晴彦と付き合うと決めた7年前から、圭一が常に自分自身に言い聞かせてきた事だった。
『完全なノンケとの付き合いが、長く続くと思ってるのか?あとで裏切られて傷つくのがおちだぞ』
昔言われた言葉。それが記憶の扉の鍵を開け……いや、忘れたことなど一度だってなかったのだから、その表現は正しいとは言えない。
「それでも7年続いてる……」
それは、まるで自分に言い聞かせるかのような小さな呟きだった。だからこそ、奇跡なのだという思いは、何年経ってもなお拭い去る事ができないでいる。
自分の性癖については、それを自覚してから流れた年月の中で、それこそもう開き直っていた。初恋の相手は男だった。そして、これまで抱いてきた数少ない恋愛の感情だって、いつも向けるのは自分と同じ性を持つ相手にだった。それだって、どんなに悩んでも仕方のない事だと、そう割り切る事だってできる。
だからこそ、本人の口から直接語られる事はなかったが、光流との関係で悩んでいる様子だった新に対しても、強い心で見守っている事ができたし、その恋が成就するしないに関わらず背中を押してやる事だってできた。
でも、自分の事になると駄目なのだ。事、晴彦との関係においては、いつもどこかで諦めの気持ちを抱いてしまっている事を、それが晴彦を怒らせる原因だとわかっていながらも割り切ってしまう事ができない。
晴彦の今の気持ちを疑うわけではないし、自分を愛していると告げてくれるその言葉だって信じている。でも、それも永遠のものではないのだという事を、いつか晴彦は元いた彼のいるべき世界に戻っていくのだという事を、いつも心のどこかで覚悟している自分がいた。
そしてそれは、今の自分達の年齢を考えても、そう遠くない未来に起こりうる出来事だと、そんな思いがあるのかもしれない。それは、この年になって多くなった、友人達から届く結婚式の招待状がひとつの原因だった。
結婚適齢期──…それは、晩婚化が進む今日でも、30を目前に控えた男としては不思議のない事で。基より恋愛対象者が男である自分には関係のない世界だが、そうではない晴彦にとっては、現実問題、十分に起こりうる可能性のある事なのだ。
考えないようにしようとしても、どうしたってついて回るその現実に、知らず不安を訴える心が、6年前に一度きり口に出してしまった言葉を、再び唇に乗せてしまうという形で現れた。それが、晴彦を激昂させる言葉だと、それを十分に知りながらも。
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