捉えた視線を絡ませ、焦れったい仕草で重ね合わせた唇の感触は、今でもはっきりと覚えている。
「せんせ……っ!?」
絡ませた腕から、触れ合った場所から伝わってくるあいつの震えが、不思議なほどに残酷な感情を呼び起こし。汚してやりたいと……ただそれだけだった。
俺とキスをして、こいつがほんの少しでも嫌悪感や拒絶を表したら、そら見た事かと、所詮はその程度の気持ちだったのだと、笑い飛ばしてやるつもりでさえいたのに。
「祐希──…っ!!」
そんな俺の浅はかな考えは、幼すぎる雄の本能を煽るには十分すぎる刺激になってしまったらしい。
一瞬尻込みを見せたこいつの反応に、鼻で笑ってやろうと身体を離した瞬間、抗えないほどの力で抱きすくめられ。
「吉ざ……っん…」
驚きに目を見開いた俺の唇は、まるでしゃぶりつくような勢いで貪られた。
あまりに幼く稚拙なその口付けは、お世辞にも気持ちがいいだなんて思えるような代物ではなかったが、気づいたときにはその熱情に浮かされるかのように、夢中になっていたのは俺の方だった。
不器用に絡み合う舌の存在は、性的欲求など感じさせられるようなものではなかったはずなのに、容易く俺の理性の箍を外し。
口付けの合間に漏らされる、俺の名を呼ぶあいつの声が、あの頃の彼の声と重なり、あり得ないほどの興奮を胸に迸らせたんだ。
そして、改めて気づかされてしまったんだ。
こいつに惹かれていく心の裏で、俺はまだ彼への想いを捨て切れずにいるのだという事実に。
そんな想いを抱えたままで、こいつの気持ちを受け入れられるはずなどないではないか。
俺の歪んだ感情で、こいつの綺麗な心を汚してはいけないだなんて……ほんの少し前に、汚してやりたいと思ってしまうほどに憎いとさえ思ったのは、他の誰でもない俺自身なのに。
相反する感情の狭間で、あの時俺が見出せた決断は、たったひとつしかなかった。
「好きだよ……好きなんだ……」
ガタガタと、周りを囲む机の列を乱しながら、縺れ込むようにして倒れこんだ床の上。
床に叩きつけられる衝撃から、俺の身体を守るようにして抱きしめてくれた吉沢の腕が、縋るようにして力を込めてきて。
そして、明らかな意味を含んで仕掛けられた、やはり幼い口付け。
「それで気が済むなら、俺を犯せよ」
抵抗をする事なく、それを受け入れた俺の唇が発した言葉は、自分でもゾッとするほどに冷たく尖ったものだった。
「せんせ……?」
こいつが、そこまでを考えていたのかなんて、それは俺にはわからない。
だからそれは、こいつの将来の為を思って、わざと突き放すような言い方をしたわけでもなんでもなくて。
受け入れるべきではないと、それを理解しながらも、その存在を手に入れたいと願う、とことん相反する感情から出た言葉だった。
「どうした?怖気づいたか?」
わざと挑発するような仕草で、触れ合った足を絡ませ、首筋へと伸ばした手で引き寄せ口づける。
と、全身を強張らせながらも抵抗を見せなかった吉沢の唇が、乱暴に俺の唇を塞ぎ、同時にシャツの中へと滑り込んできた手が、余裕なく胸元を這い回る。
触れられたその手の冷たさに、ゾクリと肌が粟立ち、しかし感じる内側の熱に思わず小さなため息が漏れ出したその瞬間。
「ご…ごめ…っ!」
「吉沢…?」
我に返ったように身体を起こした吉沢が、ほんの少し乱れた俺のシャツを直し、今にも泣き出しそうな表情で床に転がったままの俺の身体を、支え起こしてくれた。
期待をしながらも、どこかでこいつが思い留まってくれた事にホッとしたのも本当で。
掴まれた腕を振り解きながらゆっくりと立ち上がり、未だへたり込んだままのこいつを見下ろせば、俯いたままの瞳からポタポタと零れ落ちた雫が、床のタイルに小さなシミを広げてゆく。
何を泣く必要があるんだ?別に俺は女じゃない。1度や2度押し倒されたくらいで、しかも未遂だったというのにいちいち傷つくほど、初心な心は持ち合わせていないぞ?
そう声に出しかけた言葉は、しかし発する事が何故か躊躇われ。
だからと言って、慰める意味でこいつに触れる事もできず。ただ呆然と見下ろす俺に、謝罪の言葉を繰り返すこいつが、不意に力なく立ち上がり。その目尻を濡らす涙を腕で拭いながら……笑ったんだ。
「ごめんね、せんせぇ……俺、今無理やりやっちゃうとこだった」
「別に……」
無理やりだったわけじゃない。押し倒された形にはなっていたが、間違いなく誘ったのはこの俺だ。
そう言おうとした俺の言葉は、静かな吉沢の声に遮られた。
「こんな事がしたかったわけじゃないんだ……って、今更説得力なんてないけど。でもさ、俺知ってるから」
「知ってる…って…?」
「せんせぇがさ、俺の事嫌いじゃないって事と…」
「そ…れはっ……」
「うん、教え子としてだよね」
静かな声で語りかけてくる吉沢の表情は、この3年間うっとおしいくらいに纏わりついてきた、無邪気な少年のものなんかではなくて。つい今しがた見せた、欲望を湛えた雄のものでもなくて。
ただ穏やかなその笑みは、これまで見てきた吉沢のどんな表情よりも、ずっと大人びて見えたから。ほんの僅か跳ね上がった心臓の鼓動の意味を、全て理解しそうになった己の思考に、正直戸惑った。
「そんでさ……誰か好きな人がいるって事も…」
「───…っ!?」
「せんせぇさ、自分で気づいてないだろ。時々さ、すげえ寂しそうな顔で、教室の窓の外見てんの。その顔がさ、すげえ綺麗で……俺が好きになったせんせぇは、誰かの事を想ってるせんせぇだった」
そう言って笑った吉沢の表情は、やはりドキッとしてしまうくらいに綺麗だった。
こんなにも穏やかな笑みを浮かべる奴を、俺は知らない。今目の前にいるのは、俺が知ってる吉沢 輝一じゃない。
「おまえに……何がわかる…」
「わかるよ。だって、俺は本当にせんせぇの事見てたもん」
「おまえなんかに…っ!」
「わかってたまるか…って?残念!わかっちゃうんだな〜これが」
「ちょっと切ないけどね…」と、そうポツリと呟いたこいつの声こそ切なくて。痛いくらいに締め付けられる胸が悲鳴を上げる。
「だからさ、今すぐが無理だなんて事、ちゃんとわかってる。でもさ、いつか……せんせぇがその人の事を忘れられる時がきたら、その時は俺が隣にいたいなって……そう思っちゃったんだ」
「吉ざ……」
「でも、こんなんじゃ無理だよね。俺ってば、てんでガキで……あんな事したって、せんせぇは俺のものになんかならないのにさ」
まるで自分に言い聞かせるように紡ぎだされるその言葉は、切ない痛みとなって俺の胸に浸透してくる。
「ごめんね、せんせぇ。でもさ、いつか……俺がちゃんと大人になった時、もし会えたら……。そしたら、今度はちゃんと考えてよ。冗談なんかじゃないんだよ?俺はね、本当にせんせぇの事が好きなんだ」
言いながら、そっと目の前に差し出された大きな手。その手が何を望んでいるのか、半ば混乱し始めていた思考では、そんな簡単な意味ですらわからずに。
戸惑いに揺れる瞳で、ただその手を凝視する俺に、フッと笑みを浮かべた吉沢が、俺が握り返すその前にゆっくりと引っ込めたそれを、静かな仕草でズボンのポケットへと突っ込んでしまった。
「祐希せ〜んせ!3年間お世話になりました。せんせぇに会えたから、俺学校に来るのが楽しかったよ」
ぺこんと、軽く頭を下げた吉沢が最後に向けてくれたのは、この3年間で見飽きるほどに向けられてきた、俺がよく知る笑顔だった。
「またね、祐希せんせ!」
そして、俺からの言葉を待たずに、こんな日には当たり前のように交わされる、「卒業おめでとう」のその言葉すら言わせてもらえないままに、いつもと変わらない軽快な足取りで教室を出て行った吉沢の、その広い背中を追いかける事が俺にはできなかった。
「何だ……それ…」
自分で呼び出したくせに。あんなにも真剣な表情で、声で告白してきたくせに。
どうして、俺の答えをちゃんと聞こうとしないで、そうやってあっさり出て行ってしまえるんだ?
取り残された教室の中で、呆然と呟いた自分の声が、妙に虚しく響き渡り。
それでも、傷つけてしまったはずのあいつが最後に見せてくれたのが、いつもと変わらない笑顔だったから。
頬を一筋伝い落ちた涙は、苦しいくらいに温かかった。
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