西宮さんが新を案内してくれたのは、3階の喫煙所横にある会議室だった。
「こちらへどうぞ」なんて、完璧なまでの営業用スマイルを貼り付け新を促した西宮さんが、後に続いて部屋の中に入っていいものかどうか、悩んで入り口に立ち尽くしている俺にそんな耳打ちをしてきて。
こうやって新が会いに来てくれて、今更どこに逃げ隠れしたって仕方がないと、それはわかっているはずなのに……。
今までの新の態度と、ついさっきの行動の意味が、どうしても頭の中で繋がりを見せないままの俺にとって、このまま2人きりになるのはやっぱり怖かった。
「俺…この後外回りが…」
「予定が入ってるのは午後からで、午前中は普通に営業周りする予定だったんだろ?だったら、少しくらい大丈夫なんじゃね?」
「小峯……」
この期に及んでもまだ逃げ腰になってしまう俺の言葉に、まるで覆いかぶさるようにして声を発した小峯に、ちょっとばかし恨みがましい視線を向ければ、まるで「知らない」とでも言うように1度逸らされてしまう視線。
「ケイが来たら、すぐにここに連れてくるから。小峯、おまえは仕事に就け」
「はい」
「え…?あ、あの…っ!」
2人して出て行ってしまおうとするその背中に、思わず縋るようにして声をかければ、不意に振り返ってくれた小峯がツカツカと歩み寄ってきて。
「逃げたって仕方ねえだろうが。いつまでもウジウジ考えられて、こっちの仕事にまで影響出たんじゃたまんねえし」
そっと耳元に寄せられた唇から零された言葉。
「まあ、今んとこ、仕事には支障はねえけどよ。昨日の飲み方見てっと、その可能性も否定しきれないからな」
言ってる事はもっともで、胸にツキンと痛みが走ったけど、交わったその視線が呆れた中にもふんわりとした温かさを感じさせられるものだったから。
「あんま思いつめんな。キャラじゃねえから」
笑いながらそう言ってくれた小峯が、ポンポンと頭を叩いてくれたその手が、やっぱり相変わらず優しかったから。
ようやくコクンと頷いた俺に、よしよしって、子供をあやすような笑顔を向けてくれた。
結局、小峯と西宮さんに背中を押されるような形になってしまったけど、そうやって残された部屋の中で、それでも流れる沈黙に耐えられなくて。
さっきから、会議室の椅子に座って腕を組んだまま、何も言わずに刺すような視線を向けてくる新に気づいていたから、完全に心臓が縮こまってしまっている俺は、当然視線を上げることも言葉を発する事もできないままに、2人が出て行った扉の前から動けなくなっていた。
きっと、その時間はほんの数分……いや、1分もたっていないほどに短かったんだろうけど、自分の飲み込む唾液の音ですらやけに大きく響いているような気がする俺にとっては、何時間にも思えるほどに苦痛な時間で。
どうしてだろう……。
さっきは、あんなにも優しい眼差しを向けてくれていたのに。
予想していなかったからこそ、抱きしめられて驚き……それでも凄く嬉しかったのに。
ここにいるのは、間違いなくさっきと同じ新のはずなのに、感じる空気がとんでもなく張り詰めてしまっているように感じる。
サングラスをしていてもわかる、射抜くように向けてくるその視線が怖くて、息すらうまくできなくなってしまいそうだ。
「あ…あの…っ!」
やっとの思いでそう声をかけるものの、俯いたままで顔を上げれない視界の端に、ようやくゆっくりと椅子から立ち上がった新の姿が映り。
「…つ──…っ!?」
反射的にビクッと震えてしまった俺の肩は、次の瞬間痛いくらいの強い力で掴まれていた。
「あら──…っん…んんっ!」
その痛みに、ようやく顔を上げ抗議の声を上げようとした俺の唇は、その目的を果たさないままに乱暴に塞がれた。
噛み付くようなそのキスに、当然嬉しいなんて思えるはずもなく。ただ怖くて……突然のその行為の意味がわからないから怖くて。
「やめ……っん…!」
必死に抵抗しようとするけど、ますます強い力で掴まれる肩が、そこから叫びだしたいほどの苦痛を運び込んでくる。
「…っん…ぁ…っ!やめ……やめろっ!」
それでも、こんなのは嫌だ!こんな、意味もわからず、ただ乱暴に仕掛けられるキスなんて、一番欲しいと望んだ気持ちがそこにはない事を、思い知らされているようなものじゃないか!
懇親の力を振り絞り、振り上げた手で必死にその胸を押し返す。そして、バシン!と甲高い音とともに、振り上げた手に痛みが走り。
「……ってえな…」
振り下ろした掌に、ジンジンとした痛みが広がり。
カシャンと小さな音とともに床に落ちたサングラスを目にした俺は、慌てて視線を上げる。
……と、そこには、左頬に手の甲を当てながら、ギロリと睨み付けてくる鋭い視線があった。
「ごめ……でも…」
「なんだよ。キスして欲しかったんだろ?おまえが言ったんじゃねえか」
ふんっと、鼻を鳴らしながら床に落ちたサングラスを拾い上げる新の仕草が、スローモーションでも見ているかのように、妙に現実感を伴わずに視覚を抉り。
発されたその言葉に、ビクンと身体が硬直する。
「それは……っ!」
言ったよ。確かにキスして欲しいって、あの時俺が言った。
そして、一番言ってはいけない言葉まで口にしてしまった。
だからって、こんなのは嫌だ。
「俺の事が好きなんだろ?」
「───…っ!!」
拾い上げたサングラスを、着ていたダウンのポケットに突っ込みながら、俺へと向けられたその視線は、やっぱり冷たいものだったから。
さっき一瞬見た、あの笑顔は幻だったのだと……それを望む俺の心が見せた、幻に過ぎなかったのだと──…。
「おまえがして欲しいって言うから、してやったんじゃねえか」
どこまでも見下すような台詞。
楽しんでる?おまえに抱かれて、その唇を求めてしまう俺の浅はかさを嘲笑ってる?
どんな形でも、こいつの傍にいられるのなら、それでいいと思ってた。
例え偽りでもいい……その唇を求めたのだって本当だ。
でも違う……俺が本当に欲しいのは、こんなキスでも、そんな言葉でも、ましてや蔑むようなおまえの視線なんかじゃない。
どんな形でも、こいつから与えられる温もりが、たとえ一瞬のものだとしても、それでもいいと思ってたはずなのに。
現実それを目の前にすると、違う!と、欲しかったのはそんなものじゃない!と、心が悲鳴を上げる。
「何……しに来たんだよ……」
「光流?」
「俺をからかいに来た?俺が好きだって言ったから……?こんな事して…っ!そんなに楽しい!?おまえに見限られるんじゃないかって、ビクビクしてる俺を見るのが、そんなに楽しいのかよ…っ!!」
限界だった。こんな風に蔑まれるのは苦しくて、ただでさえ千切れそうに痛かった心が、なんとか踏みとどまっていた想いが溢れ出す。
「こんなんが欲しいわけじゃない……俺は……」
「光流……」
「触るなっ!!」
一瞬、戸惑うように揺れたその声が、何かを堪えるように飲み込まれてしまって。それでも触れようと伸びてきたその手を、思いっきり振り払った。
だって、今こいつに触れてしまったら?俺は縋ってしまいそうだったから。
嫌だと叫ぶ心とは裏腹に、どんな形でもいいから傍にいてくれと……傍にいたいのだと、叫んでしまいそうだったから。
だってさ……ずるいよ。1度でもあんな風に抱きしめられてしまったら、どんなに踏みつけられても、どこかでそれを許されるんじゃないかって、そう勘違いしそうになるだろ……?
「なんで……?なんで…こんな事に……」
それ以上何かを言ってしまえば、すぐにでも涙が零れ落ちてしまいそうで。
そんな醜態は晒したくないと、ギリギリの所で踏ん張っているプライドだけが、俺の中の砦だった。
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