叫び出しそうになる声を堪え、新からの連絡に耳を塞ぎ続けた今日もまた、1日がとてつもなく長く感じられた。
定時をとっくに過ぎた営業所のフロアの中で、ぼんやりとデスクに座ったまま帰ろうとしない俺の肩を、不意に小峯がポンポンと叩いてきて。
「帰らないのか?」
「帰りたくない……」
「は?」
口をついて出たそんな言葉に、驚きの表情を浮かべた小峯を前に、慌てて口を閉ざす。
「そういう台詞は、可愛い女の子に言ってもらいたいな〜。おまえに言われてもね〜」
「わ〜るかったな!可愛い女の子じゃなくて」
殊更何でもない事のように流してくれる小峯が、それでもその瞳に戸惑いを浮かべていて。
それを逸らすように、俺もまた明るく言い放つ。
そして、ようやく立ち上がり手にしたコートと鞄が、やけにずっしりと重たく感じた。
「冗談だよ!帰るに決まってんだろ」
嘘だ……帰りたくない…。
だって、きっと今日、あいつが会いに来る。
あいつからの連絡に、メールひとつとして反応を示さない俺に、きっと怒ってる。そして、今日こそ全ての終わりを告げられる。
「飲みに行くか!」
「え?」
「決まり!行こうぜ。どうせあさっては休みだ!」
「ちょ……小峯?」
「な〜にをウダウダ考えてんだか知らねえけどよ、酒飲んで全部忘れちまえ」
コートを羽織った俺の腕を、小峯がちょっとびっくりするくらい強い力で掴んできて。
冗談を言うような口調なのに、向けられる瞳は真剣なものだった。
「あさっては休みって…だったら、飲みに行くなら明日だろ!?」
「おっ?飲みに行くのか?」
どうしたって飲みに行く気分になれない俺は、真剣な小峯の視線から逃げるように断りの台詞を口にしようとした。
その時、場違いとも思えるほどに明るい声がして、その瞬間俺達2人の肩がガシッと抱きこまれる。
「西宮さん…」
「俺も混ぜて〜。最近さ〜ケイの奴が忙しいんだか知んねえけど、全然相手してくんねえのよ。今日もトラブル抱えてるとかで、帰れねえかもしんねえなんて言うしさ」
「いいっすよ!じゃあ、3人で飲み明かしましょう!」
「いや、俺は…」
「話わかるね〜小峯くん」
「どこにします〜?」
「ちょ……2人とも」
「ほれ、行くぞ光流」
断ろうとする俺の言葉を遮るかのように、異様な盛り上がりを見せる2人が、いつまでも動こうとしない俺を振り返り。結局行かないと言い出せないままに、小峯に促され営業所を3人連れ立って後にした。
こうして3人で飲みに来る事は、今までを振り返ってみても決して珍しい事ではなくて。
仕事を離れてしまえば、上司も部下も関係ないと言わんばかりに、気さくな態度で接してくれる西宮さんとは、一緒に飲んでいても上司と飲んでいるのだという窮屈さを感じさせられた事はなかった。
結局2人の盛り上がりに押され、いつも3人で飲みに来る駅前の居酒屋へと腰を落ち着ける。
駆けつけ一杯と言わんばかりに、運ばれてきた生ビールのジョッキを煽る2人を横目に、見事に丸2日間胃に何も入れていない俺にとって、その行為はまさに自殺行為そのもので。
乾杯を交わしたものの、ジョッキに口をつけようとしない俺に、それでも特に2人が何かを突っ込んでくる事はなかった。
「ケイさん、仕事忙しいんですか?」
「ん〜…俺も詳しくは聞いてねえけどさ。でも、いつもいつも仕事最優先って、それもどうなんだ!って思わねえ?」
「西宮さんの話し聞いてる限りでは、ケイさんってキャリアウーマンの鏡!って感じするからな〜…妙に納得できるかも」
「小峯〜…それを言っちゃあお終いよ…」
仕事では出来る男なのに、こうして飲みに来る時の西宮さんは、実はちょっと可愛い。
本当に上司という仮面を脱ぎ捨てて、ただの飲み友達として俺達に接してくれる西宮さんの口から飛び出すのは、仕事の話なんてほとんどなくて。
どうやら学生時代からの付き合いであるらしい、同棲している彼女の話が多かったりする。
ケイさんと言うその人は、西宮さんいわく、とっても美人で可愛くて、家事全般はもちろんの事、仕事もバリバリやってのけるキャリアウーマン。それが、西宮さんから聞かされる、俺と小峯の中のケイさんのイメージ。
もちろん、話を聞くだけで、会った事なんて1度もないんだけど。
部下であるはずの俺達の前でも、そんな事は関係なく、嬉しそうに彼女の話をする西宮さんは、やっぱりちょっと可愛くて。
学生時代から彼女にぞっこん惚れてた西宮さんの、猛烈なアタック話だとか、一緒に暮らし始めてからの惚気話とか……飲みに来れば散々聞かされる話に、会った事もないケイさんを知っている気にすらなる。
「俺だってさ、仕事と俺のどっちが大事なんだ!なんて…そんな女々しい事言いたくねえけどさ…」
「西宮さん…言いたいんだ…」
「ぬっ!?小峯!てめえ、今思いっきり引いただろ!」
「いやいや…でも、社で西宮さんに憧れてる女の子には、あまり聞かせたくない台詞っすね」
「何とでも言いやがれ。おまえにゃあ、天地がひっくり返ったってわかんねえだろうよ」
拗ねたように口を尖らす西宮さんに、ハハハ…と乾いた笑いで返す小峯にも、一応2年越しの付き合いの彼女がいる。
ただ、こういう話の時、普段は結構似たタイプと思えるこの2人の違いがはっきりと見て取れて。
恋愛に熱くなるらしい西宮さんと、可愛い女の子がいいなどと軽口を叩きながらも、意外に恋愛に関してドライな小峯との、どうにも噛みあわない恋愛事情を聞いていると、申し訳ないと思いつつもおかしかったり。
相変わらずのトークを展開する2人に、自然とくすくす零れ出す笑み。やっぱり、この2人と過ごすこんな時間は、ささくれ立った感情を、僅かとは言え沈めてくれる。
でも、その裏で少しだけ……いつもほんの少しだけ羨ましいと思ってしまっている自分もいるんだ。
相手が仕事優先だと嘆く西宮さんも、別に彼女が全てじゃないと言い放つ小峯も、それでも2人に共通しているのは、想いを通わせ合う相手が傍にいるという事。
それは、どんなに望んでも、俺の手の中にはないもので。
抱き合う温もりはそこにあっても、俺の心は受け入れられる事などないから。
「好きな人と気持ちが通い合うって……奇跡みたいなもんですよね」
気付いたら、そんな言葉を発していた。
「愛川?」
「光流?」
「何だかんだ言っても、西宮さん幸せそうなんだもんな〜。ちょっと妬けるかも」
ポツリと呟いた俺の言葉に反応した2人が、ちょっと怪訝そうな視線を向けてきたから。
慌てて何でもない事のように言葉を繋げ、もう1度ビールを煽る。
そして、卓上に所狭しと並べられる料理に手を伸ばそうとするものの、手に握った箸は、その役割をなかなか果たせないままだった。
身体が受け付けないんだ。鼻腔に届く、本来なら美味そうな料理の香りでさえも、今の俺にとっては何の魅力も感じられなくて。
それでも、2人に不審に思われないように、なんとか口に放り込んだ枝豆が、まるで砂でも噛んでいるかのように、口の中でジャリジャリと音を立てているようで。
無理やり飲み下そうとした瞬間、しばらく大人しかった携帯電話が振動を伝えてきて。それに反応するかのように、胃が競り上がってくるような嘔吐感。
それら全てを飲み下すように、一気に煽ったビールの冷たさが、空っぽの胃に染み渡り、そこに含まれたアルコール成分が、容赦なく内臓を叩きのめす。
「まあな、苦労の末に手に入れた奴だからな。結局は、惚れた俺の負けなのよ〜」
「恋愛に勝ち負けないっしょ」
「わ〜優等生くんな答え!確かにな、勝ち負けはないとは言え、やっぱり俺はいつでも負けてる気分よ」
「そうかな……勝ち負けはあるよ。結局は、好きになっちゃった方が弱い……何も言えない……」
おどけた調子で展開されているはずの話に、こんな風にして水を差しちゃいけないって、それはわかってるのに。
空っぽの胃に流し込んだアルコールが、急にその存在を主張し始めて。
くらくらと回り始めた思考を前に、俺はずっと押し殺してきたはずの思いが溢れ出すのを感じていた。
「どんなに望んでも、手に入らない……いつだってあいつは優位に立ってて、俺の気持ちなんて気付こうともしない…」
「光流?誰の話してんだよ?」
「愛川?」
呆然と、2人がいる事も忘れて呟きを漏らす俺の視界が、途端にぐにゃりと歪み始めて。
この時になって初めて、本当は泣きたかったんだって……捨てないでくれと叫びたかったんだって、そんな自分の気持ちに気付かされたんだ。
「わ〜わ〜っ!俺、何言ってんだろ。西宮さんが惚気るから、羨ましくなっちゃったじゃないですか〜。もう、勘弁してくださいよ!」
「どっちがだよ!急にしんみりするから、びっくりすんだろうが」
でも、もちろんこんな酒の席で泣けるはずなんてなくて。
自分のせいで一瞬静まりをみせてしまった場の空気を、一変させるかのように冗談を飛ばす。
それを感じ取ってくれたのか、2人がそれ以上を追求してこようとはしなくて。
いつものようにバカ話に花を咲かせながら、飲み込まれてしまいそうな不安の渦を拭い去るかのように酒を煽り続けた。
その夜、何度か着信を告げてくる振動が、そのまま俺の胸を抉り出し。
近づいてくる崩壊の足音に、耳を塞ぐ事しかできないでいる俺は、現実から目を逸らし続ける卑怯者だ。
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