そう言い残して部屋を出て行った新から、結局連絡が来る事はなかった。
心のどこかでわかっていた事とはいえ、もしかしたらあいつも向き合おうとしてくれているのかもしれないなどと、そんな期待を僅かとはいえ持っていた自分の浅はかさに、最早涙も出てこない。
あの夜、俺を抱く新の表情が、何かを言いたげだったなどと、所詮は俺の願望が見せた幻だったのだ。
それでも、あいつがあんな目で見つめてくるから……朝目覚めたときに、感じる事のないはずの温もりを感じてしまったから。バカな俺は、胸にほんの少し生まれた期待を、拭い去る事などできなかった。
例え、受け入れられる事などないとしても、それでも傍にいる事くらいは許されるのではないか。
一方的な想いでもいい。これまでと同じように、あいつの腕に抱かれる……それだけは許されるのではないか──…。
そんなバカな事を、真剣に考えてしまっている自分に、正直嫌気がさした。
だって、俺はどうしたって女じゃない。そんな俺が、この気持ちに気付かれてしまった今、それを望む事が許されるはずもない事など、言われなくたってわかりきった事ではないか。
だいたい、男のくせに、あいつに抱かれたいなどと…どこまでも俺の思考は腐りきっている。
「ありがとうございました。では納車の方は1週間ほど、お時間をいただく事になりますが。その時に、お車の方も引き取らせていただきますので」
闇に突き落とされたかのような錯覚に陥った昨日、まるで死刑宣告の判決を待つ罪人のような気持ちで新からの連絡を待ち続け。たった1日が、永遠にすら思えるほどに長く感じられた。
それでも、この世の終わりかと思うほどに落ちても、人間というのはなかなかにしぶとい生き物らしいと、絶望を感じるその中でも、いつもと変わらない日常を送っていた自分に驚きすら覚えた。
新が出て行ったあの部屋で、己のものとは思えないほどの悲痛な叫びを漏らし、それでも流れ落ちると思っていた涙は、その欠片ですらも零れ落ちる事などなかった。
本当に全てを失ってしまいそうな恐怖に駆られた時、人は泣けないものなのだと、昨日の朝、俺はそれを初めて知った。
考える事を拒絶した自分が取った行動は、いつものように身支度を整え、いつものように出社し、仕事をこなし笑顔を浮かべ続ける事。
自分でも不思議なほど、いつもと変わらない時間を過ごす、そんな俺の心は、もしかしたら完全に壊れてしまったのではないかと。そう思って笑いが止まらないほどだった。
それでも、やっぱり流れる時間は、苦痛なほどに長く遅く。過ぎ去って欲しい時間ほど、滑稽なくらい緩やかに流れていく。
昨日は、たった1日で何度携帯に視線を落としただろう。
あいつからの着信を告げる事のない存在に、無意識のうちに心奪われ。そして、待ち焦がれていると言っても過言ではないその連絡に、相反して怯える心も否定できない。
何も言われない事ほど、不安を煽られる事はないと、どこかで連絡ひとつ寄越さないあいつを責めながら。
もしあいつが連絡をしてきたら、その時こそ全てが終わるのだと。覚悟を決めろと自分に言い聞かせながらも、それを拒絶する心。
「では、失礼いたします」
そんな自分の思いの全てを誤魔化し続け、一夜明けた今日、また俺は変わらない日常を過ごしている。
営業用の笑顔を貼り付け、昼食を取る暇なく訪れた客の下。
今日も順調に新車の契約をかわし、客受けのいい営業マンの顔で客の下を後にする。
でも、どれだけ誤魔化そうとしていたって、身体ってのは結構敏感に反応を示すものらしい。
営業所へと戻る車の中、昨日から全く物を受け付けない胃が、キリキリとした痛みを訴え。それでも視界に広がる、フロントガラス越しの空の、嫌味なくらい澄み切った青に自嘲が漏れ出す。
もう、告げない着信音に耳を澄ませる事は諦めた。
昨日、何度も開いた携帯のディスプレイを、意味なく開く行為ですら諦めた。
このまま──…あいつが望むのなら、もうこのまま、全てを終わらせてもいいだなんて、それを受け入れたくないと叫ぶ心とは裏腹に、そんな事すら考える。
どうせ終わってしまうのなら、せめてあいつの口から聞かされるであろう、侮蔑の言葉も非難の言葉も、聞きたくないと思ってしまう。
いっその事、思いっきり踏みにじられてしまった方が、踏ん切りがついていいじゃないかと、そんな自虐的な思いに支配されながらも、きっと現実、あいつに蔑みの視線を向けられてしまったら……?
きっと俺は、今度こそ立っている事すらできなくなる──…。
「結局……どうしたいんだよ俺は…」
昨日から何度も繰り返す自問。
わからないんだ。どうしていいのか、どうしたいのかわからない。
悶々と考え続ける、あまりにも定まらない思考。抱き続ける、相反する気持ち。
そのどれもが、自分の中のどこかに潜む本心で。そのどれもを否定しきれない。
このまま狂ってしまうのではないかと思うほどに。
信号待ちで止まった車の中、ハンドルに額を押し付けて、こうした1人の時間が一番苦痛なのだと訴える。
誰かがいれば笑える。1人にさえならなければ、俺は笑っていられる。
「ただいま戻りました」
「お〜っ!1件取れたって?」
営業所に戻り、デスクに鞄を置く俺に近づいてきたのは、相変わらず満面の笑みを浮かべた西宮さんで。
それにホッと息をつきながら、ようやく俺もまた笑みを貼り付ける。
「結構大口だって?」
「ええ。今の車を処分して、今度は仕事用と2台納車して欲しいって」
「金持ちってのはいるもんだね〜」
おどけたように言い募るその言葉に笑顔で返し、やっぱりいつものように店長に報告に行く。
と、その時、スーツの胸ポケットに忍ばせていた携帯が、不意に着信の振動を告げてきた。
あり得ないとわかっていても、一瞬脳裏をよぎった期待に、知らずビクリと身体が震える。
「愛川?」
報告書を提出し、それでも動こうとしない俺を、目の前に座る店長が不審気に見上げてきた。
「あ…すみません…」
「もういいぞ?」
「はい…失礼します」
軽く一礼をしてその場を離れようとした時、今度はメールの着信を告げる短い振動。
電話の後すぐのメールの受信に、どうしたって期待と不安がない交ぜになる。
「愛川?」
「あ…すぐにまとめますので」
もう1度店長に名前を呼ばれ、慌てて細かい書類の作成のためにデスクへと戻った。
「どうした?」
デスクに向かう俺に、心配気に声を掛けてくれた西宮さんに、何でもないと笑顔を向け、取り出して開く勇気を持てない携帯に、それでも意識の全てを奪われていた。
あいつからであるはずがないと、そう自分に言い聞かせるものの、電話の直後のメールの存在が、拭い去れない予感を現実だと訴えかけているようだった。
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