幼かったあの頃の淡い恋心は、時を重ねるごとに、色鮮やかな優しさと切なさだけをこの胸に残し、己の中で知らず美化されていく思い出は、同時にそこから動き出す勇気すら奪っていった。
叶うならこのままずっと、優しい夢の中に生きていたいとすら願ってしまうほどに、まだ純粋だったあの頃の想いは、徐々に薄汚れていく心の救いで、同時に弱い心の象徴のような存在だった。
しかし、留めておきたいと願いながらも、少しずつ薄れていく記憶の中で、あの頃出会った彼の笑顔だけは今も鮮やかに甦り、過去に縋る俺の弱さでさえも許してくれているような。そんな錯覚を現実と捉えようとする俺の、たったひとつの支えだったんだ。
昼間は春の穏やかな陽射しが差し込むこの部屋も、夜の闇のベールを被ると共に、妖艶な雰囲気を色濃く漂わせる。
会えば、決まりごとのように重ね合わせる肌の温もりに、今日も縋り痴態を晒す。
「祐希──…愛してるんだ…」
そして、いつだって繰り返される睦言は、どこか不安を湛えているようで。
俺を見つめる、雄の本能を剥き出しにした、欲望に濡れるその瞳がいつも不安気に揺れていて。
自分がこんな顔をさせているのだと、それを理解しているからこそ、胸に甘く広がる快感。その不安を取り除いてやりたいと思う心の裏で、ただ俺だけを見つめ求めるその瞳の存在が、そのまま変わらずそこにあればいいとさえ願う。
「祐希……祐希……」
何度も繰り返される己の名が、この瞬間、どうしようもなく愛しく思える。
決して同じ言葉を返そうとはしない俺の身体を、貪りつくそうとする目の前の恋人の首に腕を絡め、誘うように腰を揺らせば、簡単にこの手に落ちてくる幼さが愛しくて。
その激しさに飲み込まれそうになる、まさに至福とも言えるその瞬間、すぐにでも手放してしまいそうな理性の裏でいつも脳裏に思い描くのは、過ぎ去ってしまったあの頃の、切なく淡い夢物語──…。
「祐希(ゆうき)せぇ〜んせっ!」
ガラリと、勢いよく開け放たれた職員室の扉。同時に聞こえてきた、呆れるほどに煩い声に、机に肘を突いた手でこめかみを押さえつける。
休み時間になると繰り返される、うっとおしい事この上ない呼びかけ。
「ねえねえ、今日こそ一緒にお昼食べようよ」
日常と化してしまったこの風景に、最早注意を促す教師1人見当たらない。
それどころか、こうして訪れる生徒の存在に、「いいですねえ」なんて、そんな嬉しくない声を同僚教師からはかけられる始末だ。
「吉沢ぁ〜…何度言ったらわかるんだ。弁当は教室で友達と食え!」
「え〜?本当に冷たいよな〜。こうして足しげく通って、もう3年近いってのに、いっつも言う事同じなんだからさ」
にこにこと笑顔を貼り付けて、懲りもせずに弁当箱を持参してくるこいつは、3年の吉沢 輝一(よしざわ きいち)。
何が楽しいのか知らないが、1年と3年と、こいつのクラスの教科担当を受け持ってはいるものの、担任でもない俺に、それこそ高校入学当時からやたら懐いてくるこいつは、でかい図体に似合わず素直な奴で。
人好きする、いつも貼り付けられているその笑顔は、まあ……嫌いじゃない。
でも、3年生は卒業を控え、すでに自由登校となっているこの時期になってもまだ、ご丁寧に弁当持参でこうして通ってくるこいつが、正直少し疎ましかった。
嫌いではないが、しつこいくらいに寄せられる、はっきりと意味を見出したくない好意は、正直に言ってしまえば、迷惑以外のなにものでもなかったんだ。
「もう、卒業まで時間ないんだぜ?残された時間がないんだからさ、少しくらい付き合ってくれても罰当たんないと思うな〜」
「その残り少ない貴重な学生生活の時間を、こんなくだらない事に費やしている方が、どうかと思うがな」
「くだらない!?な〜に言っちゃってんの?俺にとっては、大事な大事な時間なんだぞ」
わざとらしい程に張り上げた声で抗議の言葉を発し、ぶすぅ〜っとむくれた表情を作り出したところで……いくら生徒と言えども、自分よりも遥かにデカイ図体した奴を可愛いだなんて、思えるわけないだろうが!このバカタレが!
……と、怒鳴ってやりたい気持ちをなんとか押し込める。
ウザイくらいに纏わり付かれていても、俺は教師だ、教師……。
たかが生徒の、こんな悪ふざけにいちいち振り回されてどうする。
そうだ……落ち着け、落ち着くんだ俺!
こんなはずじゃなかった。
別に、教師という職に、特別な思い入れや憧れを抱いていたわけじゃない。教員免許を運良く手にしたから、就職活動の一環として受けた有名私立高校に、これまた運良く採用されて。
今や難しいとされている教師という職業だって、仕事だと割り切ればそこそこにはやっていけるだろうと。
思春期真っ盛りの中学生に比べれば、高校生の方がまだ、幾分扱いだって難しくはないだろうし、深く突っ込みさえしなければ、たいした問題にだって直面する事もないさ……と、本当に軽い気持ちでついた職だったんだ。
それなのに、蓋を開けてみればどうだ!?
教師になって1年目は、まあそこそこにやっていたと思う。今だって、別に大きな問題を抱えているわけでもなく、教師生活4年目にしてようやく、1年生の担任を任されるようにもなった。
そこそこに生徒にだって慕われてはいるし、教師イジメの的にならないでいるだけ、俺の教師生活は順調だと言えるだろう。……こいつ、吉沢の存在さえ除けば。
そう!問題はこいつなんだよ!
教師生活2年目の春、まだ担任はおろか、副担任のクラスすら持っていなかった俺は、1年生の数クラスの数学担当という、当然新人の域を出ない新米教師で。
それでも、それなりに教師生活にも慣れ、親しみを込めて「狩野(かのう)ちゃん」などと、俺としてはあまり喜ばしくないニックネームで呼んでくれる生徒も、チラホラと見かけられるようにはなっていた。
そんな、平穏だった俺の教師生活に、能天気なほどに明るい……いやいや、やかましいほどに煩わしい嵐を運び込んできやがったのが、他ならぬこいつ!今目の前で、懲りずに弁当箱の入った袋を突き出してくるこいつ……吉沢だ。
約3年前の春。ほんの少し前まで中学生だった新入生達は、揃って初々しく緊張した面持ちで並んでいた。
もちろん吉沢もその中の1人で。今よりも2回りは小柄だったはずのこいつは、それでも当時から満面にニコニコと貼り付けた笑顔の存在だけは、今も変わる事ないままなのだが。
図体ばかりが、どんどんデッカクなりやがって。
「祐希せんせぇ〜」
俺よりも小さかった頃は、まだ可愛いとも思えたが、今や俺よりも遥かにデカク育ったこいつに、そんな風に甘えるように名前を呼ばれたって、可愛いだなんて思えるはずがない。
「ズルイよな〜…俺がせんせぇより大きくなったら、ちゃんと真面目に考えてやるって、そう言ったくせにさ…」
真横に腰を落とし、中腰の体勢で机についた腕に顎を乗せ、少し上目遣いで視線を向けてきながら、まるで俺に非があるのだと言わんばかりに愚痴を零す。
「そんな事言ったか?」
「うわっ!ずっりぃ〜、とぼけてる!!俺、今すっごく傷ついちゃったもんね」
大げさに胸を抑え込み蹲りながら、チラッと窺うようにして見上げてくる視線は、そこにおかしな意味など含まれていなければ、まあ……可愛い生徒の1人として見れない事もない。
が、しかし!生憎と、俺は男子生徒からのふざけた告白を真に受けるほど、おめでたい思考回路は持ち合わせちゃいないんだ。
「ふざけてばっかいないで、さっさと教室に戻れ」
「だぁ〜かぁ〜らぁ〜!一緒に飯食おうってば」
「い・や・だ!おまえとなんて、落ち着いて飯が食えるか。食べた気がせずに、無駄に疲れるのがオチだな」
「ひどい!ひどすぎるぜ、祐希ちゃん」
「その『祐希ちゃん』ってのをやめろ」
「なんで〜?可愛い名前じゃん。せんせぇにぴったり!祐希ちゃ〜ん」
立ち上がり、まだそこに座る吉沢の腕を引っ張り上げながら、ギロリと睨みを利かせるものの、相変わらずへらへらと笑うこいつは、全く気に留めた様子もなく、嬉しそうにその名前を繰り返し紡ぎだす。
その事に、ほんの少しのくすぐったさを覚えながらも、同時に胸を締め付ける切なさに、無意識のうちに心が息苦しさを訴えかけてくる。
本当に苦手なんだ。こいつに名前で呼ばれるのは……。
昔俺の名を呼んでくれた、あの声を思い出してしまうから。
皮肉な事に、こいつとそっくりな声で俺の名を呼んでくれた、あの声を思い出してしまうから───…。
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